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取材 ・テキスト

宮崎 敦(山形支局長)

 

 

repo.6 YC余目

 

〝 庄内に新風を吹き込む若手のホープ 〟

20242

色摩亮 店長

庄内町の読売センター(YC)余目の色摩亮店長(27)は、2023年11月に着任した気鋭の若手だ。生まれ育った山形を離れて都会のYCに飛び込み、横浜、東京、愛知でキャリアを積んで、店を任されるたくましさを身につけて凱旋した。庄内の厳しい風雪にも耐えながら、山形に新しいYCを作ろうと奮闘している。

◇全国屈指のYCで経験を積む


色摩店長は米沢市出身。家族は男6人女2人の8人きょうだいの6番目だった。県北の高校を中退して地元に戻り、建設業や別の新聞販売店のアルバイトをしていたが、腰を痛めるなどして仕事をやめた。“東京に出て、もっと稼ぎたい” 10代の終わりに山形を離れ、横浜で介護の仕事をしていた兄を頼って移り住んだ。

 

お金がなくて借りた部屋にテレビも置けず、部屋に帰っても音がない生活。故郷を遠く離れ、自力で生計を立てるしかない。いろいろな仕事に挑戦したいと思ったが、まず手に職をつけるのが最優先だった。そこで紹介されたのが、山形で半年ほど経験した新聞販売の仕事。読売新聞の愛読者が多い横浜でも、特に多くの購読者が住むエリアをカバーする市南部のYCだった。

色摩亮 店長
池上さん

いつかは店を持ちたい

 

店には午前0時半頃、工場で刷りたての朝刊が届く。折り込みのチラシをはさみ、バイクで午前1時に出発する。ひと晩で配達するのは、読売新聞だけで400部以上。地元紙などを含めると1日約600部にもなった。午後2時頃には夕刊も届く。バイク配達とはいえ、街には坂が多い。部屋に帰ると疲れて寝るだけ、そんな毎日が続いた。「最初のひと月、こんなに多く新聞を配れないと思った。ホームシックにもなり、1か月でやめようと思った」それでも慣れてくると、一人で黙々と新聞を配る仕事が好きだと気づいた。「先輩の従業員がいい人で、店長にも『テレビを買ってあげる』と引き留められた。店の人間関係がよかったことが、仕事が続けられた一番の理由だと思う」 人見知りするタイプだったが、横浜で営業も先輩に鍛えられ、徐々に仕事に自信がついてきた。新聞販売の仕事でもっと稼ぎたい。いずれは独立し、自分の店を持つ夢を見始めた。

意外に早く故郷に戻る

横浜で5年ほど働いてから東京都江戸川区のYC葛西船堀(佐久間一洋所長)に移り、さらに9か月で愛知県のYC瀬戸に異動した。世界が広がり、あちこちのYCの仲間と知り合うようになると、配達する部数の多さなど横浜で経験したYCの環境が、他の店よりも厳しかったことに気づいた。「最初の頃は家のインターホンを押すのもためらい、お客様にお会いしても全然しゃべれないこともあった。数をこなすうちにだんだんできるようになり、徐々に自分のやり方を覚えていった。今では0.1%でも可能性があればインターホンを押す。ダメならダメでOKだから、そう割り切れるようになった」その仕事ぶりを見込んで山形から店長の誘いがあり、帰郷を決断した。「いずれ故郷に戻るとは思っていたが、こんなに早く帰るとは予想しなかった」

 

ただYC余目のある庄内地方には、これまで縁がなかった。
 

色摩亮 店長と池上さん

頼もしい助っ人と一緒に店を育てる


着任すると、すぐに店舗の掃除や整理、配達順路の確認など、店の経営に一から取りかかった。12月、大雪が降った。米沢での生活で覚悟していたつもりでも、夜の配達中に車が雪道にはまり、低い気温と庄内特有の強風がもたらす地吹雪には悩まされた。気候は厳しくても、これまでのYCでは得られなかった充実感がある。「久しぶりに山形の人の優しさ、人間味を感じることができた。お客様に街で話しかけてもらうとかは都会ではなくて、懐かしい感じがした」1月、東京のYC葛西船堀から助っ人が余目に来た。静岡県出身の池上さんで、山形暮らしは初めて。

「YCアマルメって聞いて外国の店かと思った」

それでも持ち前の明るさで、すぐに店と街にとけこんだ。色摩店長がめざす店作りに打ち込める環境が、少しずつ整ってきた。「お客様にもYCにも土地柄がある。山形の読売会は、他の地域と比べてセールスなどお店の意識が高くて勉強になる。県内には世代が近い店長も多いので、もっと知り合って情報交換をしたい」2月にはYC葛西船堀に勤める色摩店長の兄が、池上さんと交代で助っ人に加わるという。

 

庄内地方のYCに、ひと足早い春風が吹き始めているようだ。

YC余目

 

山形県東田川郡庄内町余目猿田43-2

TEL 0234-42-2379

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