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取材 ・テキスト

宮崎 敦(山形支局長)

 

 

repo.3 YC小松

 

〝 人情にあふれた町で、新聞を届ける喜び

 

2023年6
*文字化け防止:高橋の高は本来は

旧字体の[はしごだか]です

髙橋元気 所長

読売センター(YC)小松のある川西町は昨年8月の豪雨でため池の堤が崩壊し、町の中心部が水没した。店は浸水を免れたが高橋元気所長の自宅が被災し、配達用の車やバイクが使えなくなった。それでも日頃からYCを大事にしてくれる読者に“新聞を届けたい”と、被災した町を走り回った。

◇最後の一人まで配達する


鶴岡市出身の橋所長は東京で仕事をした後、2014年に山形に戻り、YC寒河江の鐘下勝彦所長の指導の下、新聞販売の仕事を始めた。YC鶴岡を経て、2021年7月からYC小松の所長になった。古里の山形だが、置賜地方で暮らすのは初めて。驚いたのは、町の人情の厚さだった。豪雪となった冬の早朝に配達していると「無理して配達しなくていいのに」と謝られたり、「車が道路から落ちたらトラクターで引っ張ってやる」と声をかけられたり。「雪で配達が遅れても苦情を言われない。子どもが生まれたら靴下やジュースをくれたり、集金が終わって店に戻ると誰かが届けた野菜が置いてあったり。こんな経験は初めてでした」。それだけに人情に甘えず、新聞を待つ一人一人に最後まできちんと配達することを心がけ、仕事をしていた。

「どうやって朝刊を配ればいいのか」

 

昨年8月3日の夕方、町に大雨が降った。店で仕事をしていると、妻のいづみさんが自分の車で子どもと店に駆けつけ、「早く乗って逃げて!」と声をかけた。気がつくと、目の前の道路を川のように水が流れていた。家族と一緒に近くの高校に避難したが、自宅には朝刊の配達に使う車やバイクが置いたままになっていた。

“必ず戻るから” いづみさんと約束して家に戻ったが、水はどんどん深くなり、深いところでは腰の近くにまで達した。日が暮れて暗い中、近所の人と手をつなぎ、励まし合いながらなんとか道を進んだ。家にたどりつくと自宅は畳の上まで水につかり、車もバイクも動かない。“どうやって朝刊を配ればいいのか” 途方に暮れたが、“避難で使った妻の車を使えば配達できる”と思いついた。だが道がこの状態では新聞を積んだトラックが町に入ることができない。

豪雨被害
豪雨被害

翌朝4時半から配達に奔走

そこで印刷工場から届く川西町の新聞をYC南陽(阿部正勝所長)で預かってもらい、橋さんは朝4時半に避難所を出発して新聞を取りに行った。最上川支流の水があふれて途中の道が水没し、一度は引き返したが、5時半に再挑戦してようやく到着した。新聞を積むと、店の従業員に「今から戻るから配達の準備をして!」と、電話をかけた。夜が明けると、水につかった町や道路の惨状がはっきりとわかり、水害の怖さを感じた。

 

6時半にYC小松に戻り、7時に配達に出発。“遅くなってもいいから、安全第一で配達をしよう” 従業員3人と町内を回り、午後2時半頃までに配り終えたという。

 

町から水が引いた後も、苦労は続いた。暑さや土ぼこりや悪臭の中、昼は町の人と助け合いながら自宅や道路の土砂を片づけ、朝は配達に回った。読者から遅配の苦情はほとんどなく、逆に「大丈夫だった?」「ご飯食べている?」などと声をかけられ、励まされた。床上まで水につかった家の畳を取り替えるなどして、生活が元に戻ったのは2か月後だった。

豪雨被害

助けてくれた感謝を胸に

着替えもなかったが、YC鶴岡などの他店舗から靴下や消毒液、ゴム手袋などの備品が届いた。山形YCの結束の強さを感じ、涙が出たという。町と自宅は復興し、YC小松はきょうも読売新聞を届けている。

 

「川西町に来てよかった。周囲に感謝するという気持ちが、日々芽生えます」

 

高橋さんは7月から福島県の販売店に移ることが決まったが、山形と川西町で受けた恩は、忘れないつもりだ。

髙橋所長(右)と妻のいづみさん

 

橋所長(右)と妻のいづみさん

復興した自宅前で

YC

 

山形県東置賜郡川西町上小松3155

TEL 0238-42-6538

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