取材 ・テキスト
宮崎 敦(山形支局長)
repo.7 YC白鷹
〝 お店と家族を支えながら、今を一生懸命に生きたい 〟
2024年4月
読売センター(YC)白鷹の宍戸高廣店長(37)は福島県出身。東日本大震災の直前に妻の実家がある長井市に移り住み、山形で生きていく覚悟を固めた。「経営術を学んで、しっかりとYCの経営を支えたい」。妻と一緒に子供三人を育てながら、YCの仕事を学ぶことに邁進(まいしん)する日々だ。
◇「山形で生きる」20代の決意
地元福島市の中学を卒業した後、父親がいた埼玉県に移り住んだ。そこで工事の力仕事をしたり、会社の寮に住み込みで工場の流れ作業の現場で働いたりした。「人と話すのが苦手で、営業の仕事とかはできないと思っていた」。故郷の福島に戻った後も、慣れた工事関係の仕事を続けていた。
転機は23歳だった2010年。自動車の免許を取るため白鷹町の自動車学校に来て妻となる女性と知り合い、結婚した。妻は地元の長井市で暮らすことを望み、福島から土地勘のなかった山形に移住することを決意した。仕事も工事現場からファミリーレストランに変え、何もかも心機一転の出発だった。
妻のお腹に最初の子供がいる時、東日本大震災が起きた。大きな被害には遭わなかったが、市内でガソリンが給油できなくなって小国町まで出かけたりするなど、生活面ではこれまで経験しなかった苦労を味わった。
◇YCのアットホームな雰囲気で、苦手な営業仕事も克服
3人目の子供を授かった17年の秋、YC長井でパートの新聞配達を始めた。レストランで午後3時から午前2時の夜シフトで働いた後、朝までにもうひと仕事をして稼ぐことができる。一家を支えるための仕事だったが、やってみると福島市内と違って雪が多く、毎朝の配達が思いのほか重労働で、責任の重い仕事だと気づいた。
年が明けて雪がなくなると、バイクで早朝の誰もいない時間に市内を走り、配達するのが楽しくなってきた。子供が増えて暮らしは大変だったが、レストランとの仕事を掛け持つのが時間的にも難しくなった。働き始めて約半年が経った18年5月、内山繁美YC長井所長に「うちで正式に働かないか」と声を掛けられ、YC一本で生きていくことを決めた。
従業員になると、配達以外に集金や営業などで昼の間に人と接する仕事が増えた。「初めての営業でしたが長井の人は優しく、お客様と会話するのが楽しく感じました。仕事を通じて人と接し、お客様とのつながりが広がっていくのが知らない世界で、新鮮でした」。YC長井の仲間は新人研修の頃からアットホームな雰囲気だった。芋煮会や忘年会、新年会といった内山所長が企画するイベントも楽しく、居心地の良さを感じたという。
「福島から来た最初の頃は、何もない街だと思っていました。それがYCの仕事で市内をくまなく動き回り、いろいろな路地を発見して、休日には妻と子供たちと一緒にお弁当を持って白つつじ公園に行ったりするうちに、『こういう場所に幸せがあるんだ』と感じるようになりました」
「長井の人は、戸別訪問でもよくお話をしてくれます。あったかい人ばかりで、でもだめなところはだめと言ってくれて、勉強になります。営業に出るのは心が重くなる時もあったけれど、街の人とのあいさつも自然にできるようになったし、会話の引き出しも増えたように思います」
◇経験を積んで、次のステージへ
近隣のYCで仕事を手伝うようになってから少しずつ自信をつけ、YC高畠中央やYC上山で店長も経験した。「店長になると、また覚えることがいっぱいありましたが、その時には『何でも経験したい、大変なこともあるけれど楽しめる、何でもやってやる』という気持ちになっていました」
22年9月、梅津智宏店長(現YC山形東部所長)の後を継いでYC白鷹の店長になった。さらにYC長井の所長補佐も兼務している。妻と初めて出会った白鷹も、長井に負けず花が多くて自然が美しく、親しみやすい人柄の街だと思う。
「自分に合っている仕事だと思いますが、自分ができることは所長が10とすると、2か3くらい。YCには新聞以外にもやるべき仕事がたくさんあるし、新しい企画は所長任せの部分がある。自分が追いつけないところを、まだまだがむしゃらにやりたい」
「内山所長や梅津所長らいいお手本が近くにいたのは、他ではできなかった経験です。経営術を学んで、所長を楽にさせたいですね。でも先のことはあまり考えず、今という時間を一生懸命に生きたいと思っています」
内山所長(左)らYC長井のメンバーと一緒に(3月)
YC白鷹
山形県長井市高野町1-2-2
TEL 0238-88-2337